「武蔵野台地」ならどこも安全? 関東大震災に学ぶ 〝地盤リテラシー〟の身に着け方

住まい選びのときにチェックすべきポイント「地盤」「地形」
繰り返される震災を通じて、それが重要だという認識が近年広がっています。

では、その良し悪しはどのように判断すればよいでしょうか。

同じ町名でも、丁目が違ったり道1本隔てたりするだけで地形が異なる、というのはよくある話。細かく見る必要があるのです。

また、低地と呼ばれる地域の中でも、比較的揺れにくい地域が存在するケースがありますし、反対に台地上でも谷筋に当たる場所はあります。したがって、「低地=危険」「台地=安全」といった単純な解釈は成立しません。

このコラムでは東京23区に焦点を当て、関東大震災での被害状況と地盤・地形の成り立ちを照らし合わせることで、〝地盤リテラシー〟の身に着け方をお伝えします。(出典・武村雅之 著 「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」/日本地震工学会論文集 第3巻、第1号、2003「1923年関東地震による東京都中心部(旧15区内)の詳細震度分布と表層地盤構造」武村雅之)

【凄まじい揺れだった関東大震災】

大正12(1923)年9月11日 午前11時58分32秒


神奈川県西部から相模湾、千葉県の房総半島の先端部にかけての地下で断層が動き出しました。日本の歴史上の災害ワースト1である、関東大震災が始まった瞬間です。

マグニチュードは7.9、最大観測震度は7。亡くなった人の数は10万5385人、全壊全焼流失家屋数(震動や火災、津波によって滅失した家屋数)は29万3387棟にも上りました。

明治以後の記録で、関東大震災の次に被害が大きかった三陸地震(1896年)で亡くなった人の数は2万1959人、全壊全焼流失家屋数が8891棟。比較すると、関東大震災の被害が桁違いだったことが分かります。

被害をここまで甚大なものにした主な要因は、東京や横浜で発生した大火災でした。

では、火災以外の要因による被害はどれほどだったのでしょうか。

推定によると、亡くなった10万5383人のうち、火災が起こらなかったと仮定した場合の死者数は約1万4000人。全壊全焼流失家屋数は約11万棟です。火災の凄まじさ、恐ろしさが一層浮き彫りになります。

ただ、この推定被害を明治以後の災害記録と照らし合わせると、人的被害は前述した三陸地震に次ぐ規模。家屋被害は、全壊全焼流失家屋数が10万282棟に及んだ阪神・淡路大震災と同クラスです。

つまり関東大震災は、火災だけでなく強い震動に起因する被害についても、観測史上ワースト1、2を争うものだったということです。

【「沖積層」の低地】 【「洪積層」の台地】

震動の大きさを左右する要素は大きく2つ。震源からの距離、そして地殻の表層部=地盤、地形の性質です。

一般的に地盤は、古い時代に堆積したものほど地震時の揺れを増幅させにくい、とされています。

関東地方の地盤を概観すると、構成する地層により次の3つに大きく分類できます。

〇沖積層…約1万年前から現在までの新しい時代(完新世)に堆積。主に低地を構成する。

〇洪積層…約200万年前から1万年前(更新世)に堆積。洪積台地と呼ばれる、丘陵地を形成する。多くは、10万年前以後の後期更新世に堆積したもの。

〇第三世紀以前の地層…洪積層より更に古い地層。主に山地を形成する。

本コラムのテーマである、東京23区の地盤構造を見てみましょう。

東京都区部の地形図 (出典元:国土地理院)

なお関東大震災当時、東京は「東京府東京市」であり、麹町・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・小石川・本郷・日本橋・京橋・浅草・本所・深川・神田・下谷の15区で構成されていました。

「山の手」と呼ばれる地域は、ちょうど武蔵野台地の東の縁に当たります。小河川の谷により区切られた複数の台地を総称して「山の手」と呼ぶのが一般的です。

これらは洪積層が堆積した洪積台地に該当し、地震で比較的揺れにくい地盤と言えます。

一方で、武蔵野台地と千葉県北部の下総台地に挟まれた東京低地の一部が、一般的に「下町低地」と呼ばれます。15区のうち日本橋・京橋・浅草・本所・深川区と、神田・下谷区の一部が当てはまり、中央を隅田川が流れています。

地盤は沖積層でできており、その主体は砂や泥。地震で揺れやすい地盤です。

【強く揺れた吉原付近 かつて巨大沼地だった】

揺れやすいとされる下町低地の被害は、関東大震災においてどれほどだったのでしょうか。

下町低地の中でも、隅田川の東側の本所区・深川区は総じて震度が高く、ほとんどが震度6弱以上で、震度6強から7だった地域も少なくありませんでした。

隅田川の西側に位置する浅草区も、北部は震度が高く、当時吉原遊郭があった吉原付近では震度7が観測されています。

台東区千束4丁目 かつて吉原遊郭があった付近
関東大震災で甚大な被害が出た

現在の浅草公園の西側から吉原にかけては、かつて巨大な沼地が存在しました。北部は深さが20mに達していたとも言われています。池の底の堆積層やその後の埋め立ての影響が、吉原を中心とした浅草北部の震度の高さに関連している可能性があります。

しかし、浅草区北部がそのように強く揺れた一方で、同区の南部と、左に隣接する下谷区の南部では、震度はおおむね5弱から5強でした。

俯瞰してみると、現在の上野公園と浅草公園を東西に結ぶ線を境にして、震度の高い地域と低い地域がはっきりと南北にはっきり分かれています。そして震度の低い地域は、更に南に下って日本橋区・京橋区へと続いています。

現在の上野公園と浅草公園を東西に結ぶ線の真上に当たる付近
高低差などは見られない

揺れやすいとされる下町低地の中に、なぜ比較的震度の低い地域があるのでしょうか。

鍵を握るのが、〝埋没台地″の存在です。

【下町低い震度の正体 海底に〝埋没台地〟】

最後の氷河期だった約2万年前、現在の東京湾はほぼすべて陸地でした。

その後、約1万年前までには氷河期が終わり、6000年前にかけて気温が急激に上昇。極地の氷が溶けて東京湾の奥深くに入り込み、波によって台地の一部が削られました。その、削られた部分が海に埋没し、浅くて固い海底の台地を形成。その上に利根川などの大河川が大量の土砂を堆積させ、下町低地を覆う沖積層が出来上がりました。

その結果、武蔵野台地の一部が波で削られてできた台地が海底に埋没しているのです。そこでは沖積層の基底は浅く、数m以下です。

同じ下町低地でも、浅草・下谷区の南部から京橋・日本橋区にかけて震度が比較的低いのは、このような埋没台地の存在があるためと考えられます。

【山の手で揺れた地域 地下に河川跡】

続いて、山の手台地の被害状況に移りましょう。

地震時に揺れにくいとされている山の手台地ですが、その中に震度6強以上が帯状に続く地域があります。日比谷・大手町・神田神保町・水道橋にかけての地域です。特に神田区の西部に当たる、神田神保町から水道橋にかけては震度7を観測しています。

現在の神保町付近

この要因を理解するには、神田川が大改修された経緯を知る必要があります。

水道橋付近から見た神田川

井の頭公園に端を発する神田川は現在、東京をほぼ東西に流れ、早稲田・水道橋を通って本郷台を横切り、両国付近から隅田川に流れ込みます。

しかし江戸時代以前、神田川は「平川」と呼ばれ、流路も異なっていました。本郷台を突っ切ることなく、水道橋付近で流れを南に変え、江戸城の東側から日比谷入江に注いでいたのです。

流路が替えられた正確な時期は定かでないですが、その目的は、江戸城を洪水から守り、土砂により江戸の湊が埋没するのを防ぐためだったようです。

日比谷・大手町・神田神保町・水道橋にかけての震度の高い地帯は、まさに日比谷入江から平川の流路に一致しています。また、特に震度が大きい神田神保町から水道橋付近には、「大池」という沼地が存在していました。

このように地表の様子は変わっても、地下には、平川が洪積台地を削った谷が続いていて、震度が6強から7の地域はこの埋没谷に沿っているのです。

****************************

一口に下町低地といっても、形成過程での条件の違いによって地域ごとに揺れ方が大きく違い、関東大震災の際に明暗を分けたことが分かりました。また、山の手台地でも、過去に河川や沼が埋め立てられるなどの人工的な土地改変が行われてきた場所が存在し、関東大震災で強く揺れています。

水道橋から神保町間の道路
地下に河川跡があると思われれるが
それを連想させるものは地表に何もない


住まい選びに当たってはまず、低地/台地といった地形の大まかな概要を把握すること。その上で、目当ての土地についてピンポイントで地形・地盤を確認するのが望ましいですが、今回紹介した台地や河川跡が地下に埋没しているようなケースは、周辺を歩いてもよくわかりません(写真参照)。ハザードマップをはじめ、インターネットや書籍から自分なりに情報収集に努める必要がありそうです。



















ライター 鹿島香子

大学卒業後8年半、不動産業界紙「住宅新報」で記者として働く。
主に中古住宅流通、行政系の記事を担当。
2児の出産・育児を機に現在はフリーで活動。